2017年10月研修旅行(屋代郷巡り)資料

◇ 旅行申込みちらし(PDF)    ◇ 研修旅行資料メモ(PDF)
◇ 亀岡文殊資料(井田さん提供)  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 ページ
◇ 安久津八幡資料(井田さん提供)  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 ページ
◇ 井田さん資料・資福寺跡・高畠城址(PDF)

2017年の研修旅行は,10月7日(土)に高畠町(屋代郷)の史跡を回りました。会長の体調不良もあり,例年と時期が異なり秋の旅行になりました。 案内を前高畠町教育委員会文化課で史跡に詳しい井田秀和さんに頼みました。大きな柱としては,義民と言われる高梨利右衛門の史跡,上杉の前に置賜を支配していた伊達家の史跡を巡ります。
会員は米沢市役所に集合し,車を乗り合い,亀岡文殊で井田さんと合流しました。市役所集合では,予定時間に来ない会員宅に迎えに行くハプニングもありましたが,なんとか全員集合。
高畠町(屋代郷)は,米沢藩の藩主上杉綱勝が急逝し,吉良家から綱憲を養子に迎えてお家断絶は免れたものの30万石から半領の15万石になり,福島の信達地方と屋代郷を失いました。
その後,屋代郷は米沢藩預地(この預地になった時の抵抗者が高梨利右衛門と言われています)・幕府直轄・織田藩領などと変遷し,米沢の隣ですが,米沢とは異なった風土文化を持ち,幕末に米沢藩に組み入れられた際には,これに抵抗した歴史もあります(文久騒動)。
亀岡文殊(大聖寺)で,井田さんのおかげで普段は見た事のない宝物庫の様々な遺物を見学できました。その後,義民の碑前で説明を聞きました。義民高梨利右衛門の碑と立て看板がありますが,それを根拠づける資料は見つかっていないそうです。 周辺には,さまざまな石碑,石仏,板碑などがあり,それぞれの言われを聞きたいところですが,時間の関係から,高畠城址(高畠小学校)に移動。
高畠城は,現在はお堀が若干残っているだけですが,井田さんも関係した発掘調査でお堀は障子堀の遺構があり,伊達時代からのものであることは確認されているそうです。高畠城は伊達家が米沢に移るまでの置賜支配の中心地でした。 ここに限らず,発掘調査すると,奈良・平安時代の遺物は比較的多く出土するそうですが,中世の遺物は少ないそうです。人間の移動が激しい時代には遺物も少なくなるのかな,と話されていました。
次に二井宿小学校脇にある酬恩碑に行きました。とても巨大な石碑で見る者を圧倒します。高梨利右衛門に象徴される民衆の力を示しているように感じます。 午前中の最後は,高畠町野手倉にある伊達儀山政宗(独眼竜政宗よりずっと前の政宗です)夫妻の墓です。明治になって発見されたというお墓です。記念撮影をしました。米沢や屋代など置賜地方は上杉の前には伊達家が長期間支配していました。 ここで,井田さんと別れて,道の駅に昼食に行きました。駐車場は満杯ですが,なんということでしょう,レストランはがら空きで,貸し切り状態でした。
午後は,安久津八幡と高畠町郷土資料館を見学し,最後の高畠町夏刈の資福寺跡(伊達家墓地)に向かいました。 資福寺跡は,お寺の遺跡はなく,近くの独眼竜政宗の館跡も特になにもなく,伊達家墓地も民家に押されて少し寂しい感じです。
帰りのおまけに,糠野目の喜多院・黒井堰碑を見学し,米沢市役所駐車場に無事に戻り解散しました。








 トップに戻る 
inserted by FC2 system