「預り金」と利息(利足)


 2月の土曜日は米沢図書館主催の古文書講座に参加しました。参加者の多くは古文書研究会会員で,同じ図書館主催のふるさと歴史講座などとは参加者の顔ぶれが異なります。 やはり,「古文書」というとハードルが高くなるのでしょうか。
 さて,今年の講座では,米沢女子短が入手した米沢の商家の文書が教材の一つでした。米沢では武家文書は多く見るのですが,地方(じかた)文書を見る機会は少なく,町の組織などで意味不明 のものも感じられ,まだまだ,米沢の基礎的な歴史も解明されていないことが多いことを実感しました。
 教材に,「預り置申金子之事」というお金を5両本金(元金)で預かったという文書がありました。預かったので翌年に間違いなく返還するという文書ですが,後書きに 「御利足月1割2分5厘にして,月々きっと御勘定つかまつるべき事」と書かれていました。
 借用書なら,利息の約定があるのは当然ですが,これは「預り金」の証文です。何か投資的な預り金なのでしょうか。それとも,借金も預り金も同じような意味で用いていたのでしょうか。
 古文書での利息の表記は何種類かあり,結構と難しいのですが,この文書は,月1.25割(12.5%)と割合表記なので,そのとおりかと思われます。そうすると,かなりの高利ですね。




例会などの案内

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   例会・場所は置賜総合文化センター
     2019年3月の例会です
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 ★3月16日(土)13時30分 1部例会
   国政談  p60 8行目
   売賀家文書 p6~18 + α

 ★3月23日(土)13時30分 2部例会
   御代々式目 p613 2行目から
   井蛙鄙談  p21 8行目から



  上杉鷹山のエピソード

      伝国の辞  - 遺念有間敷事(いねんあるまじきこと) -
 天明5年,鷹山(35才)は隠居し,治広(21才)が藩主となり,その際に訓戒を贈った。後世「伝国の辞」と呼ばれる。
 1 国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すへき物には無之候
 1 人民は国家に属したる人民にして我私すへき物には無之候
 1 国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民には無之候
  右3條御遺念有間敷候事,(以下略)
 有名な文言である。ところで,「遺念」は,辞典では,(1)未練に思う心,思いをあとに残すこと,(2)かたみ,遺物,(3)沖縄で亡霊,とある。
 これだと,「遺念有間敷(いねんあるまじき)」は,3ヶ条について未練に思う心があってはならない,という意味になる。  しかし,多くの解説は,3ヶ条を忘れてはならない,との意味に解釈している。
 「遺念」を忘れるの意味とするのだ。辞典の「遺念」とは違う意味である。「遺忘」だと忘れるの意味である。忘と念を書き間違えたのだろうか。


     火種その2
 鷹山の火種の話題は,初入部の時のものの他にもうひとつある。鷹山公世紀(p335~336),鷹山公偉績録(p755~756)に書いてあるエピソードだ。
 米沢藩の支藩である新田藩の上杉駿河守勝承(かつよし)は優秀で,鷹山も常に相談相手としていた。
 ある夜,鷹山が勝承を招いて時局について論談していたが,深更になり,爐の火が消えようとした。 そのとき,勝承が手ずから炭を継ぎ足し,頻りに煽いでようやく消えずに炭火が熾った。 これを見ていた鷹山が戯れに,国の衰頽を興すのもかくのごときか,と言ったところ,勝承は言下に, 君子の風をもって煽げば,当然に再興できるものです,と即答した,というのである。


     莅戸善政の復帰
 鷹山の藩政改革は3期に分かれる。竹俣当綱の1期,何もしなかった2期,莅戸善政の3期だ。
 天明2年に竹俣が失脚し,莅戸も天明3年に隠居し,政界から引退する。しかし,その後の藩政は停滞した。
 寛政3年に莅戸が復帰するが,この復帰に貢献したのは中条至資(のりすけ)である。 藩政改革の意見書の過半数が莅戸の復帰を望んだが,鷹山は決断できなかった。中級家臣である三手組の隠居に藩政の重職を 命じては騒動にも及ぶのでないかと心配したのだ。鷹山が藩主になって早々に七家騒動があったことが頭をめぐったかもしれない。
この時に,鷹山に決断を迫ったのが中条至資だ。中条は,妨害者がおれば命にかけて鎮めると鷹山の決断を促した。 さすがの優柔不断の鷹山も決意したのだ。

     優柔不断の勧め
 鷹山は優柔不断だった。なかなか決断できず,家臣から様々に催促されてようやく決断していた。しかし,これは一面,家臣達に考えさせ,責任感を植え付ける巧みな方法に思える。
 鷹山の実父高鍋藩秋月種美の晩年,高鍋藩江戸藩邸で危篤になった時のこと。親思いの鷹山は父の看病に駆けつけたかった。しかし,隠居藩主は本来は江戸にいるのに鷹山は足が痛い,  その治療のため赤湯温泉で湯治する名目で米沢に居住していた。なのに,父の看病だからと江戸に行って良いのだろうかと,これが最初の迷いだった。
 鷹山の思いを知った家臣達は八方手を回し,鷹山の江戸行きについて幕府の許可を得た。そして数日後に出発という時。  鷹山は,財政窮迫の折から,家臣や領民に質素倹約を強いているのに,自分ばかり親の看病で江戸に行くという贅沢をして良いのだろうか,これが次の迷いで,家臣に上京を取りやめると  伝える。
 家臣達は,既に江戸幕府の許可も得て日程も決まっている中で,取りやめと言われ大慌てである。  確かに費用はかかるが,親孝行の大切さを皆に教える絶好の機会であり,多少の費用がかかっても誰も文句は言わない,と家臣達が一生懸命に説得に努め,ようやく鷹山は上京した。
 これは鷹山の作戦だったのか,あるいは本心から決断できなかったのか,判断は難しい。


     「火種」の謎?
 鷹山の初入部に「火種」のエピソードがある。  童門冬二の小説には駕籠の中で,小さな火種をフーフーと吹いて炭火をおこした話が詳しく描かれている。「火種塾」もある。
 問題は,鷹山公偉蹟録など,これを記載している文書によると,鷹山は「煙管の頭」「雁首」を咥えてふーふー吹いていたというのである。
 雁首は,タバコを詰めて火をつける部分で,ヤニだらけであり,ここを口に咥えるという姿は尋常でない。 家臣もこれを見たら,びっくりしたろう。まさに,殿,ご乱心である。
 いったい,これはどんなことなのか?知っている人がいれば教えて下さい。





      [米沢古文書研究会の会費など]

会費 年3600円(他に教材費必要)
1部例会 毎月第三土曜日
   教材は,国政談(竹俣当綱)と売賀家文書
2部例会 第四土曜日
   教材は,御代々式目と井蛙鄙談(せいあひだん)
原則として会場は,米沢市の置賜総合文化センター
(例会は8月は休み)
連絡先 岡崎(Tel 0238-23-0948)


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